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21世紀の余暇とライフスタイル

湘南国際女子短期大学公開講座「レジャー論」に対する小論文  H17.12.13

湘南国際女子短期大学
このキャンバスは平成20年3月
31日をもって閉校となってしまった。

左側、梅沢佳子教授と受講者2人

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古代ギリシャや中世の西欧の人生観に現れている思想(究極すれば労働は怠惰であり罪悪である)を、現代の社会において、自らの人生観、生活観の中でその本質 を理解し実践に移す事ができるだろうか

「人はレジャー(余暇)のために働く」
「せっせと仕事に埋没(自己を見失って)し余暇という精神的態度を喪失することは怠惰である」


<問題提起>
古代ギリシャのプラトン、アリストテレスなどの哲学者が唱えていた哲学的な思想を、単に古典的思想(儒教の老子 孟子、孔子などの中国の思想家と同じように)捉えられてしまい、国民の意識や社会構造の中で生かせる土壌が生まれる か。

古代ギリシャにおけるレジャーの語源(Schole)から英語の(Leisure school)そして日本語の (修養、自己開発、学校)に至る間において「余暇」「レジャー」の観念が日本固有の歴史的、社会的背景の中で 独自の発想と解釈がなされ、日本独特の考え方に固定されてしまっていないか。

現代の社会的構造や国民全般の思考として古代ギリシャの「余暇」に対する思想は、理想的な思想として理解できても 、現実としてこの思想に基づいて社会機構の改革を実践するための土壌が醸成され人々に具体的に認知されるだろうか。


講座に使用した著書
・ミヒェル・エデン著「モモ」
・ヨゼフ・ピーパー著「余暇と祝祭」
・小林 司著 「<生きがい>とは何かー自己実現への道」


農耕民族から派生した日本人の労働に対する独特の価値観。
それは「勤勉・実直」「骨身を惜しまず働く」 などに象徴されるように、「労働は善、遊びは怠けであり悪」とする観念と価値観はその後の、近代国家に変貌する 日本、さらに戦中の国民総動員体制(月月火水木金金)、戦後の復興期を経てバルブ崩壊までの高度成長期 (エコノミックアニマル)に至るまでは余り変わっていないような気がする。
つまり労働(仕事)を中心に 人生の骨格が形成されており、「余暇」はあくまで暇があるから、暇が出来たから「何々をする」程度の位置づけ でしかなかったのではないか。
リタイア後、必ずしも生活に困窮していなくても65〜70歳位まで働きたいという願望が非常に高いという現実は、 労働(仕事)以外に人生の拠りどころを見出すことのできない現われかもしれない。「労働」「余暇」に対する価値観と 視点を変えることが出来れば、新たな自己実現の道を模索する事もできたはずだが、悲しいかな「労働(仕事)は神聖 なり」という観念を多くの人達が金科玉条のごとく人生観としてもち、仕事中心の人生から脱却できない我々は、 どのようなDNAを受け継いでしまったのだろう。

基本的には労働の後の休息と明日の労働のためのレクリェーション(再生)という考え方が支流であろう。
自分が生きてきた時代背景からみても、「生きがい」の本質をこのように根本から考えたことは皆無であり 、ほとんどの人が趣味、道楽、遊びの中から生きがいを見つけ出そうとしているはずである。
「生きる甲斐」と愉しみによる「遊び甲斐」「習い甲斐」など「○○甲斐」とは次元が違うということを何人の 人達が理解しているだろう。特に戦後の高度成長を労働提供によって支えてきた世代は、若者達に比べて総じて 遊び下手であり画一的な遊び(ゴルフ、マージャン、パチンコ、団体旅行、ギャンブル)にしか楽しみを見出せず 、創造的な遊びの発掘は苦手のようである。
若年層は逆に既成の遊びには飽き足らず、個々の感性の中で楽しみを見出しているようではあるが、あまりにも 個に埋没してしまい「趣味」なり「生きがい」を通して社会との繋がりや人間関係を構築していく作業が希薄に なっている感は否めない。

ーーー<生きがい>とは何か−−−の著書の最後に「人はすべて自分に運命づけられたそれぞれの場で、他の人 に少しでも思いやりと喜びとを与えることができるような生き方をすることが大切だと思う。「自分にしてほしい と思うことを他人にもしておげなさい」という古くからの金言は、他人を視野に入れたときの生きがいのエッセンス と言えよう」
日本人の「生きがい」を求める姿勢の中にこのエッセンスを盛り込めればと思う。

今までの「余暇」に対する考え方を具体的に現すと、戦後の一時期は良好な人間関係を構築するための趣味の集い、 あるいは趣味の習熟度を競う旧来の「お稽古事」の延長線上にある楽しみが主流であったはずである。あるいは 終身雇用制度の上に成り立つ企業まる抱えのレクリェーションなどに家族ぐるみで参加しささやかな「娯楽」を 楽しんでいたものである。
しかし、高度成長期を迎え更に、バルブ期に入った経済成長は、日本人の金銭感覚、物に対する考え方、「余暇」に 対する考え方、価値観を大きく変えてしまった。
「楽しみ」は金で買うという考え方。接待と言う名目で官費公費で遊ぶという感覚。更に皆がやるから自分もやる (遊ぶ)という主体性を持たない追従型人間の大量排出。これらは全て日本経済の神話(土地の価格は下がらない 、賃金は上り続ける)の上に成り立ったあだ花であったのかもしれない。その時代に「余暇」の本質を考え、本当の 「生きがい」を追求していた人間が何人いただろうか。無論皆無とはいわないが、多くの人間が主体性のない楽しみ の手段を追いかけていたはずである。

バブル崩壊後概ね15年。土地神話の崩壊をはじめとする日本経済の破綻は国民の既成概念を大きく変えてきている。 土地は値下がり、賃金は上らないなど、今までの物質偏重の考え方が成り立たなくなってきていることに気づいた人 たちが、物的消費から離れて満足する「生きがい」を模索しているはずである。
海外旅行は相変わらず盛んであるが、国民の消費性向もそれぞれが満足するものにしか金を支払わない。主体性を 持った消費性向に移行しており、追従型や総花的な金の使い方は減少しているはずである。
低成長時代、労働時間の短縮と相まってゆったりと時間が流れて行くことを実感として捉えられたとき、始めて 「生きがい」の本質を考える土壌が醸成されてくるはずである。

日本経済の成長期は終焉した。 再び、バブルの饗宴を迎えることは過去のトラウマが全て払拭されなくては再現することは決してないであろう。 全てに成熟した日本は、本来ならばゆったりと落ち着いた円熟さを兼ね備えた時代に入らなくてはならないはずである。 しかしながら、現実はバブル期に拡大した財政関連の負の遺産、少子高齢化による世代層のアンバランスは 、将来に大きな不安要素を引きずることになってしまった。
財政問題はさておき、高齢化は急速に進んでいる。
2050年には65歳以上が30%を占める。85歳を超えると4人に一人が要介護状態になるという。 生活水準、衛生水準、医療技術の向上は更に平均寿命を延伸させるであろう。
労働問題においても、終身雇用、年功序列、労使協調という「日本的経営」から欧米型の市場主義、成果主義などの 評価制度が導入され雇用の環境も考え方も大きく変わってきている。経済の低迷は賃金の抑制、正規雇用者減少、 労働時間の短縮傾向など、労働者の将来設計や「生き様」も大きく変わらざるを得ない時代に突入している。
このような時代を背景に生きる人々は、物的欲望から精神的な満足度を求め、個々に多様性に富んだ「生きがい」 を求めていくのではないか。 「余暇」に対する考え方、「仕事と余暇」の本質を追求し、社会機構の変革を求めるための土壌は整っていると 思う。

物質的な欲望から開放された時、少しずつではあるが「Going May Way」を貫く人種が増えつつある はずである。 高齢者の「生きがい」を醸成することと、個性的なライフスタイルを社会的に容認できる社会が構築されて始めて 成熟した社会になるであろう。
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