地球の片隅で楽しむリタイア生活。地球の片隅で営む海釣り、社会貢献、ボランティア、俳句、川柳。地球の片隅で人との出会いを求めて生きてゆく

21世紀の余暇とライフスタイル論文(参考図書)

湘南国際女子短期大学公開講座「レジャー論」に対する小論文  H17.12.13

「モモ」
 
ミヒャエル・エンデ
南ドイツのガルミッシュに生まれる。父は、画家の エドガー・エンデ。 高等学校で演劇を学んだのち、ミュンヘンの劇場で 舞台監督をつとめ、映画評論なども執筆する。 1960年に「ジムボタンの機関車大旅行」を出版。 翌年、ドイツ児童図書鑑賞を受賞。 1970年にイタリアへ移住し、「モモ」「果てしない物語」などの 作品を発表。 1985年にドイツに戻り、1995年8月、シュトゥッガルトの 病院で逝去。 (岩波少年文庫より)






「余暇と祝祭」
 
ヨゼフ・ピーパー
1904年生まれ。ベルリン大学、ミュンスター大学で哲学、法学、社会学を学ぶ。 社会学研究所勤務、自由著作活動の後、1946年ミュンスター大学教授(哲学的人間学) 就任。現在同大学の名誉教授。 著書に「アカデミックとはどういうことか」「哲学するとはどういうことか」「信仰について」 「愛について」など多数。
( 講談社学術文庫より)























「生きがい」とは何か
 
1929年、弘前市に生まれる。1959年、東京大学大学院博士課程終了。医学博士。 1981〜62年、フルブライト研究員として渡米。1981〜91年、上智大学カウンセリング研究所所長、精神科医 日本シャーロック・ホームズ・クラブ主宰者。日本エスペラント学界参与、作家。
著書、「出会いについて」「心にはたらく薬たち」「シャーロック・ホームズの深層心理」「サラリーマンと心の病」 「心の健康学入門」「脳を育てる、脳を守る」「性格を変えたいと思ったとき読む本」「知能が決まる三歳までの栄養」 「悩んだとき読む本」「愛とは何か」など多数。
(NHKブックス579より)



大島かおり訳  岩波少年文庫

「モモ」
物語の底流に流れる思想は、現代文明社会に対する痛烈な批判であろう。
「モモ」という女の子が、とある町の古い円形劇場跡に住みつき、町の人々の「話を聞く」こと、 無心に純真に聴く。この事だけで町の人々との幸せな交流は深まっていくのであるが、その頃大都会 では「灰色の男たち」と称する時間銀行員が暗躍し始める。
それは徹底的な効率化によって時間のゆとりを生み出させ、その時間を銀行に貯金させるという触れ込み だが、ゆとりのはずの時間は更なる生産性を高めさせる手段に使わせるため、富と安寧を求めて効率性を 追いかけた結果、逆に仕事に時間を奪われ振り回され人間性を喪失していく。
こうした「灰色の男たち」にモモのいる町も侵食され、大人たちは時間に振り回されモモとの交流も途絶え 、子どもたちまでもが危機に晒されていく。
モモは「灰色の男たち」と戦い再び幸せな小さな町の生活を取り戻すのだが。

現代のように物質的に恵まれながらも、何となく殺伐としたゆとりの無い社会、道徳観、倫理感の欠如 した社会は、効率化至上主義(時間を灰色の男たちに獲られてしまった)のために現出した社会の弊害 であろう。1

「モモ」は心洗われる童話であはあるが、現代の社会と現代人に欠けているものを多く示唆している。

「モモ」の住み着くところの設定が円形劇場としたところ、古代ギリシャの舞台装置をイメージされる と聞いて、底流に古代ギリシャの「余暇」に対する思想が脈々と流れていることが理解できるであろう。


稲垣良典訳  講談社学術文庫

「余暇と祝祭」
「余暇」の価値を古代ギリシャの思想と宗教上(聖書)の思想を源流にして、西欧の精神的 伝統の中に身をおくことによって「余暇」の価値を突き止めようとしたとのことだが、「余暇の喪失」 つまり「余暇を実践する」能力の喪失がまさしく怠惰と結びつくという考え方。
せわしく働くこと「労働のための労働」「自己を忘れて働く」ことは実は「怠けている」という 考え方は、待ったく新しい観点として捉えられた。忙しく働きすぎて自己を見失うことが「怠惰」の 本来の意味と言う。
ピーパーは第二次世界大戦のドイツの敗戦を見ながら、なぜ国民(主に労働者)がヒットラーに従属してしまった のか、せざるを得なかったのか。その検証もこめてこの本を著したという。

労働者=「プロレタリア」
労働以外に何も意味のある活動をなしえない。考え付かないほどに内面的に貧困になった人間たち。
労働の対価として賃金によって縛られており、全体主義的な労働国家の独裁的命令に従わざるを得ない人間たち。
内面的に貧困であればあるほど国家にとってうってつけの人間になる。このことがドイツ国民のヒットラー従属に つながって行ったのかもしれない。
この「プロレタリア」に対抗するために「真の非プロレタリア」となるためには、労働以外の有意義な活動の場を 得ること。
それは真の「余暇」を持つことであるという。
ピーパーのいう「余暇」とは
@ 余暇は自身の内面の問題(自由時間、休暇、週末のような外面ではない)
A 余暇は「余り物ではない」。人間の生活の中心として営まれ「余暇」のために働く人間の生活のなかに 何かそれ自体、価値があり意味があるというような部分があるかどうか。
B 忙しすぎて自己を見失うこと=怠惰
C 「余暇」すること=観想(コンテンプラチオ)=本質を見る=在るものを見る=心を開いて見る

この「余暇」の本質は「祭りを祝う事こと」=礼拝にありとのことで底流にキリスト教の思想が流れているが 、日本文化に置き換えても「晴れと褻(け)」の構造が日常生活に根付いているともいえるが現代では非常に 希薄になってしまっていると思量する。

「真の豊かさ」を求める時代に「仕事こそ生きがい」でいいのか。「働くことこそ善」の呪縛から脱出できるのか。
人間の欲求の五段階(マスロー)の衣食住を満たすために働く第一段階(生理的欲望)
安心して働けるところで働くという第二段階(安定性の要求)
仲間達と人間関係を持ちたいという第三段階(社会的欲求)
他人に認められたい、昇進したいという第四段階(エゴの欲求)
これを通り越すと、始めてもっと高次の「自己実現」の欲求が現れてくる。

この「自己実現」と言うことば、非常に捉えどころの無い、曖昧模糊としていて具体性に乏しい。
「生きがい」の延長線上に自己実現があるのか。

著書によると、全ての人間は「生きがい」を持つことによって人間の潜んでいる可能性を延ばしたいという固有の 自己実現衝動と、生産的生活や、調和と愛情を求める傾向をもっており、さらに、「生きがい」は精神の健康にも 密接に関連しているという。ただし「生きがいイコール自己実現」という簡単な構図ではないらしい。

マスローのいう基本的欲求と心理的成熟の基礎の上に「生きがい」があり「生きがい」は単一なものではなくて 幾つかの要素が組み合わさった複合的なもので、そのうちの一番大きな要素が自己実現であるという。

「生きがい」とは単に趣味を楽しむことで終わることではなく如何に「生きる甲斐」に繋げていけるかにかかっている。

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