稲垣良典訳 講談社学術文庫
「余暇と祝祭」
「余暇」の価値を古代ギリシャの思想と宗教上(聖書)の思想を源流にして、西欧の精神的
伝統の中に身をおくことによって「余暇」の価値を突き止めようとしたとのことだが、「余暇の喪失」
つまり「余暇を実践する」能力の喪失がまさしく怠惰と結びつくという考え方。
せわしく働くこと「労働のための労働」「自己を忘れて働く」ことは実は「怠けている」という
考え方は、待ったく新しい観点として捉えられた。忙しく働きすぎて自己を見失うことが「怠惰」の
本来の意味と言う。
ピーパーは第二次世界大戦のドイツの敗戦を見ながら、なぜ国民(主に労働者)がヒットラーに従属してしまった
のか、せざるを得なかったのか。その検証もこめてこの本を著したという。
労働者=「プロレタリア」
労働以外に何も意味のある活動をなしえない。考え付かないほどに内面的に貧困になった人間たち。
労働の対価として賃金によって縛られており、全体主義的な労働国家の独裁的命令に従わざるを得ない人間たち。
内面的に貧困であればあるほど国家にとってうってつけの人間になる。このことがドイツ国民のヒットラー従属に
つながって行ったのかもしれない。
この「プロレタリア」に対抗するために「真の非プロレタリア」となるためには、労働以外の有意義な活動の場を
得ること。
それは真の「余暇」を持つことであるという。
ピーパーのいう「余暇」とは
@ 余暇は自身の内面の問題(自由時間、休暇、週末のような外面ではない)
A 余暇は「余り物ではない」。人間の生活の中心として営まれ「余暇」のために働く人間の生活のなかに
何かそれ自体、価値があり意味があるというような部分があるかどうか。
B 忙しすぎて自己を見失うこと=怠惰
C 「余暇」すること=観想(コンテンプラチオ)=本質を見る=在るものを見る=心を開いて見る
この「余暇」の本質は「祭りを祝う事こと」=礼拝にありとのことで底流にキリスト教の思想が流れているが
、日本文化に置き換えても「晴れと褻(け)」の構造が日常生活に根付いているともいえるが現代では非常に
希薄になってしまっていると思量する。